利根川豆知識

・利根川の語源

・利根川の水源

・利根川の長さ

・利根川の流域

・利根川の支流

・利根川の魚

・利根川の歴史

・新板東大橋の予算

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・利根川の語源

”とね”の語源は、現在ではアイヌ語の”トンナイ”からきているという説が一般的です。
”トンナイ”とは”巨大な谷”という意味だそうで、これは上流部のことをさしていると思われます。
また、アイヌ語の”タネ”が語源という説もあります。”タネ”は”長い川”という意味です。
文書による最古の記録は、「万葉集」で”刀禰”と書いたそうです。

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・利根川の水源

利根川の水源は水上町の大水上山の標高1,840mの所にあります。
発見は、大正15年(1926年=昭和元年)です。

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・利根川の長さ 最終編集日09/05/08

利根川の長さは、一般的に322kmと言われています。
信濃川に次いで、日本で2番目に長い川です。信濃川の上流は千曲川なので、一つの名前の川としては日本一だと思うのは、私だけでしょうか?
ただ、利根川は中流域から下流域にかけては、人工的に流路が変えられているため、この点少々疑問はあります。

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・利根川の流域

利根川の流域は、ほぼ関東地方の半分。
流域面積は日本最大、16840km2
群馬県全域、栃木県の約70%、茨城県の約半分、埼玉県の北部一帯、千葉県の北部一帯、東京都の足立区・葛飾区・江戸川区など
258市区町村に及びます。
これは、もちろん利根川だけでなく利根川の支流も含みます。
しかし、群馬県全体の川はすべて利根川に流れ込んでいるわけですからすごいですねぇ。
利根川の流域面積は、日本一です。

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・利根川の支流

利根川にはたくさんの支流があり、一級河川だけで794本もあるということです。
(日本河川協会の資料によると805本これは一級河川以外も含むすべての河川数)

主な川は上流から
奈良沢川、八木沢川、楢俣川、宝川、湯桧曽川(ゆびそがわ)、谷川、阿能川、赤谷川、大沢田川、四釜川、薄根川、入沢川、片品川、永井川、沼尾川、栗の木川、諏訪沢川、奥沢川、天竜川、吾妻川、平沢川、東川、山田川、木曽川、牛王川、橘川、滝の沢川、吉岡川、牛王頭川、滝川放水路、滝川第二放水路、瑞気川、藤川、韮川放水路、烏川、広瀬川、小山川、早川、石田川、休泊川、新田川放水路、福川、谷田川道水路、渡良瀬川、向堀川、女沼川、江戸川、宮戸川、中央排水路、飯沼川、鬼怒川、利根運河、大野川、相野谷川、小貝川、手賀川、長門川、根木名川、横利根川、小野川、常陸利根川、黒部川、高田川、清水川。など。

利根川に直接つながっていない大きな川は、
烏川支流の、碓井川、増田川、九十九川、秋間川、鏑川(かぶらがわ)、井野川、鮎川、神流川(かんながわ)、
渡良瀬川支流の、神子内川、田沢川、深沢川、小平川、山田川、桐生川、黒川、袋川、巴波川(うずまがわ)、思川(おもいがわ)
鬼怒川支流の、男鹿川、板穴川、白石川、大谷川(だいやがわ)清水川、西鬼怒川、江川、田川
小貝川支流の、大川、大羽川、五行川、大谷川、西谷田川、谷田川、北浦川
常陸利根川水系の、小野川、桜川、一の瀬川、梶無川、園部川、恋瀬川、城下川、新利根川、鰐川、鉾田川、巴川
などです。

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・利根川の魚

上流部では、イワナ(岩魚)・ヤマメ(山女)・カジカ(鰍)・ウグイ(石斑魚)・アユ(鮎)、など

中流部では、オイカワ・シマドジョウ(縞泥鰌)・ソウギョ・アオウオ・ハクレン・コクレン・タナゴ・ホンモロコ、など

下流部では、マハゼ(真櫨)・スズキ(鱸)などが主な魚です。

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・利根川の歴史 最終編集日2009/05/08

古代の利根川は現在の様子と違い、埼玉県北東部から東部にかけて、現在の会の川(羽生市、加須市)、葛西用水(久喜市、幸手市)、大落古利根川(宮代町、杉戸町、春日部市、越谷市)、中川(三郷市、八潮市、足立区、葛飾区、江戸川区、浦安市)の流れをたどって、江戸湾に流れ込んでいたそうです。また途中で、荒川の旧河道の元荒川と合流していました(越谷市)。渡良瀬川の旧流路(現在の江戸川の流れに近い、別名太日川ふといがわ)と平行して流れていたため、その流れは、網の目のようになっていて、あちらこちらと流れを変えていたようです。

利根川が現在の形になっていくきっかけになったのは、徳川家康が江戸に入府したことに始まります。1590年(天正18年)江戸に入府した徳川家康は、当時江戸に流れ込んでいて、水害のもとになっていた利根川の流れをバイパスさせるため、銚子に流路を変える工事を始めました。これを「東遷事業」と呼んでいます。

この工事は、一気に完成したわけではなく、江戸湾に流れ込んでいた、利根川、渡良瀬川の水を徐々に東へ東へと移して行ったようです。埼玉東部の用水の発達を見ると、過去の人々の苦労が偲ばれます。今のように、完全に銚子に流れるようになったのは明治期になってからのようです。この辺(埼玉県北東部から東部にかけて)の土地に”**新田”という地名が多いのは、この時代(江戸初期から中期にかけて)開発された土地が多いからでしょう。
ここまでの歴史は、このサイトが大変詳しく乗っています。利根川東遷概史(とても、概史のレベルではありません。)

利根川がほぼ今の流れになったのは、明治期(1898年)になってからなんですね。

利根川は人の手が入って、現在の形になったわけで、中流から下流域は自然の河川ではありません。河川の直線化もかなり進んでいるので、上流の水が一気に下流に流れてしまうようになっており。土地によっては、川面が護岸外の土地より高いところもあり(天井川という)いったん護岸が崩れるような事故が起きると、大変大きな被害が出てしまいます。河川の直線化は水害防止のために進められたのですが、生物の多様性を阻害するなど、一長一短があります。

これは、明治以降の水害の歴史です。
1885年7月(明治18年)茨城県東村、埼玉県北河辺町で決壊。
1890年8月(明治23年)埼玉県行田市で決壊。
1896年7月(明治29年)茨城県利根町で決壊。
1907年8月(明治40年)神流川で決壊、埼玉県本庄市、同深谷市、同妻沼町、さらに熊谷市で支流が決壊。
1910年8月(明治43年)利根川水系、荒川水系全域で水害。明治時代最大の水害となる。死傷者1379名、行方不明78名、全壊家屋2121戸、流失家屋2796戸に及ぶ。
1935年9月(昭和10年)茨城県竜ヶ崎市で小貝川が決壊、江戸川、渡良瀬川、鬼怒川が越水。
1938年6月(昭和13年)霞ケ浦、印旛沼、小貝川、等で出水。
1938年8月(昭和13年)鬼怒川、渡良瀬川、等で破堤。
1941年7月(昭和16年)利根川中流域、下流域で破堤、越水各所で発生。
1947年9月(昭和22年)有名なカスリーン台風による、関東大水害、群馬県では山津波が起こり、平野部では江戸川沿いのほぼ全域が水没、ほかに、渡良瀬川や利根川水系ではないが茨城県の那珂川などが決壊した。死傷者3520名、浸水家屋303160戸、半壊家屋7645戸、流失倒壊家屋23736戸に及ぶ、まさにすさまじい被害です。埼玉県大利根町の決壊箇所にカスリーン公園があります。
1958年(昭和33年)小貝川支流で、越水。
1966年(昭和41年)小貝川、綾瀬川で越水。
1986年(昭和61年)小貝川(茨城県明野町)で決壊。
湿低地を利用し稲作を行っている以上。川と人間との歴史は水害との歴史です、これからも川と付き合って行くためには、水害とも付き合って行かなくてはならないということです。

利根川の暗い歴史
利根川にもマイナスの歴史か沢山あります。
江戸時代水害の復旧工事の際に人柱を立てたという歴史が、各所に残されて神社とされています。人柱にされる人は、僧侶、巡礼、巡礼の親子などがほとんどです。僧侶などは進んで人柱になっていますが、巡礼親子はどうかと思いますね。
明治期には足尾鉱山鉱毒により、渡良瀬川の魚が死滅したり、渡良瀬川の水を使用している田畑の作物が枯れたりしています。これは、現代の百姓一揆とも言うべき、川俣事件を引き起こしています。(1900年明治33年)。この鉱毒事件により、渡良瀬遊水地の建設が決まった話は有名で、この建設により、谷中村が丸ごと消えてしまうという悲劇も起きました。(1904年〜1917年)足尾鉱毒事件は利根川の流れにも影響を与えており、明治期に江戸川筋に多く流れていた水量を、銚子方向に多く流すように関宿から、鬼怒川合流部までの拡幅が行われたという話もあります。
昭和期には、潮止め堰(利根川大橋)建設による、漁獲量減少で訴訟が起きています。潮止め堰の建設は一長一短があり、一帯の塩害防止というお題目もありますが、生物の多様性を阻害するというマイナス面は否めません。

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・新板東大橋の予算

これがまた、ちょっと複雑です。確かに業者にお金を払うのは群馬県なのですが、坂東大橋のために管理者である群馬県が財布を用意すると思って下さい。
坂東大橋の事業費は約180億円ですので、この財布の中に180億円を入れる訳ですが、県境にある橋なので半分の90億円は埼玉県に用意して貰います。
群馬県が用意すべき90億の1/2の45億円を建設省から補助金として貰います。
これは、国道だから国が出す訳ではなく、国庫補助事業として適当だから出すということです。仮に坂東大橋が県道に有ったとしても補助は貰えます。

残りの45億を群馬県が出すわけですが、財源としては県税の他自治省からの地方交付税などを充てるので、結局予算の多くの部分が国のコントロールするお金と言うことになります。

埼玉県も同じように建設省から1/2の補助金を貰って90億円用意し、群馬県に渡します。これで、財布の中に180億円の予算ができます。
ですから、お金を財布から出すのは管理者である群馬県だが、入れるのは様々(でも、多くは国)ということです。

あまりに複雑なので原文引用ですみません。

要は、財布を作るのが群馬県、中のお金の半分は国、残りの1/4づつが埼玉県と群馬県ということらしいです。

情報提供は、群馬県の新井さん。

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07/05/01 更新

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